F1 パワーフォース
日本人ドライバー列伝
鈴木亜久里
     F1 日本人ドライバー列伝  鈴木亜久里(1988-1995)  F1パワー・フォース 
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鈴木亜久里
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鈴木亜久里 日本人初の表彰台獲得。元スーパーアグリF1オーナー
 様々なレースを経てヤマハ・エンジンとともにステップアップしていったF1において日本人初の表彰台を得たのが鈴木亜久里選手だ。彼の生い立ちは当初からホンダとのかかわりがあったようで幼少時に本田宗一郎氏にお風呂にいれてもらったことがあるという話もあったりする。鈴木亜久里氏はヨーロッパ系の混血で(昔何かの雑誌に父親と二人で写っている写真をみたがその写真はたまたまかもしれないが故ミケーレ・アルボレートに似ていたような記憶がある。)そのためか日本人離れしたルックスで過去から現在におけるF1ドライバーの中で最も華のあるドライバーであるように思えます。ワークス・ドライバーとしては本来は日産であり特にルマンなどにおいては日産から参戦していた。(1998年には日本人初の3位表彰台獲得・・・翌年トヨタ020が片山右京鈴木利男、土屋圭一ら3人のドライブによりあわや優勝かと思わせる2位を獲得するまでルマンにおける日本人の最高の成績であった。)1986年はじめてムーンクラフト(日本を代表するレースマシンデザイナーの由良拓也氏主宰)のF2マシンに乗り翌1987年からは当時中堅の運送会社であったフットワークのサポートを得て完全ワークス体制でこの年から全日本F3000となった同シリーズで2位、そして翌1988年にはタイトル獲得という成績を残した。この年のフジテレビの日本GP中継の解説が決まっていた鈴木氏であったがいきなりラルースチームから電話で誘いを受け(当時のドライバーのヤニック・ダルマスの病気欠場が決まったためその代役として)F1にスポット参戦する。翌1989年には、これがきっかけの一つともなり全日本F3000からF1へステップアップしたヤマハエンジンを搭載したザク・スピードに乗りフルタイムでの参戦を企てたがなんと全戦予備予選落ちという凄まじい珍記録を残してしまった。当時のデザイナーは後にフェラーリ、ミナルディ、トヨタの在籍したグスタフ・ブルナーであったがこのときはまだまだ駆け出しということやこの当時のヤマハ・エンジンが完全にF1レベルに達していなかったことなどもありこのような結果をだしてしまったということなのでしょう。(この年の奮戦ぶりはビデオ化されています。ただしVHSのみで当然廃盤。)。この翌年の1990年が鈴木亜久里氏のF1ドライバーとしての最高の時代となります。ラルース・ランボルギーニという中堅のシャーシ&エンジンのパッケージで走ったのです特に後半戦イギリス、フランスで連続入賞を果たし、グレイテッド・ドライバーの仲間入りした後セナとプロストがスタート直後の第1コーナーで激突した日本GPで日本人初のF1における表彰台獲得という偉業を成し遂げた。このレースでの自己最速ラップはレース全体の2位であり本当に速かったことを証明することに成功している。特にダートにタイヤを落としながらデレック・ワーウィックを追い抜いていくその姿はとてつもない力強さを感じさせた。この年の暮れベネトンからのオファーを受けながらも(3年契約とも言われている)スポンサーの関係やチームからの懇請もありラルース残留するも翌1991年は第一戦のアメリカGPで入賞した以外全くいいところなく終わった。1992年からアロウズを買収したフットワークから参戦するも全く結果は残せずに終わる。1993年後半戦はマシンにマクラーレン製のアクティブサスペンションを搭載したマシンに乗り予選は常にトップ10状態になるも全くポイント獲得できずシート喪失。1994年はJTCCを主戦場としながらも第1戦ブラジルでの走路妨害により出場停止になったエディ・アーバインに代わり第2戦岡山TIサーキットでスポット参戦するもステアリングの故障でクラッシュ。この一戦のみでこの年は終わってしまった。1995年リジェより復帰するも当初フルタイムであったものがマーティン・ブランドルとのシートシェアになり入賞はドイツGPでの6位のみ。この年の日本GP予選中大クラッシュしそのまま引退した。2006年にはスーパーアグリF1チームを率いF1参戦。しかし2008年スペインGPを最後に撤退した。
各年成績 1988,89 1990 1991 1992 1993 1994,95